
「Qはすべてを知っている」
その言葉が初めて掲示板に現れたとき、多くのユーザーはそれを冗談だと思った。
2017年10月、アメリカの匿名掲示板「4chan」に投稿されたその書き込みには、政府高官しか知り得ないような軍事作戦に関する“暗号的な情報”が含まれていた。
投稿者は「Q」を名乗り、国家機密にアクセスできる“政府内部の人間”であると示唆していた。
やがてこの“Q”が発信する情報群は「Qドロップ(Q drops)」と呼ばれ、ネット上で注目を集めていく。
Qは断定的な文言を避け、あえて断片的な言葉やコードで語った。それは「謎解き」のような構造を持ち、読者がそれを“解釈”し、“予言”として受け取るよう設計されていた。
この双方向性の仕掛けこそが、QAnon(Q Anonymous)という現象の原点であり、後の大規模ムーブメントに発展する核となった。
QAnonが広めた主な主張は、想像を超える内容だった。
例えば、アメリカの民主党エリート層やハリウッドの著名人が、児童の人身売買を行う悪魔崇拝のネットワークに関与しており、それを暴き粛清する使命を持ったのがドナルド・トランプ大統領である、というもの。
この「悪を暴く英雄トランプ」という構図は、既存のメディアや知識人が軽視した“物語”だったが、SNSを通じて急速に拡散され、何百万もの人々に支持されるようになる。
QAnonの広がりを語るうえで、SNSの役割は欠かせない。
Facebook、YouTube、Twitter(現X)といったプラットフォーム上で、QAnon信者たちは独自の解釈や情報をシェアし、急速にネットワークを形成していった。
そこには共通のハッシュタグ、合言葉、儀式のような表現が存在し、まるで一つの宗教、あるいはカルチャーのような空気があった。
だがこの運動は単なる“ネット上の遊び”にとどまらなかった。
2020年のアメリカ大統領選挙、そして2021年1月6日の連邦議会議事堂襲撃事件では、多くのQAnon支持者が現実の行動に出た。
「選挙は不正だった」「国家を取り戻せ」というスローガンのもと、彼らは現実社会に進出し、物理的な暴動へと繋がったのだ。
この事件を受け、主要SNSはQAnon関連アカウントを次々に凍結、排除していったが、それでもQの思想は地下へ潜るようにして生き残っている。
Qの正体については、未だに明確な証拠は存在しない。
一説には、複数人によるチーム投稿であるという見方もある。
さらに調査報道によれば、元4chan・8chanの管理人ロン・ワトキンスがQ本人もしくはその一部ではないかとする仮説もあるが、本人は否定している。
なぜここまで多くの人々がQAnonに傾倒したのか?
その背景には、現代社会の“信頼の崩壊”がある。
伝統的なメディア、政府、教育、医療など、あらゆる社会システムに対する信頼が揺らいでいた。
インターネットによって“自分で情報を探す”ことが可能になった現代人にとって、公式情報よりも、自分の解釈で得た真実の方が“リアル”に感じられるのだ。
そしてQAnonには、「参加型の物語」という魅力がある。
Qが与える“謎”を読み解く行為は、信者にとってただの情報消費ではなく、「覚醒者」としての自己肯定感を与える。
彼らは自分を“無知な大衆”とは違う、“真実に気づいた存在”と定義することで、アイデンティティを強化していった。
ここには単なる陰謀論では済まされない、人間の心理と欲望の構造が見え隠れしている。
ではQAnonとは結局、何だったのか?
それは“情報時代の神話”であり、“デジタル時代のカルト”であり、“ポスト真実の象徴”でもある。
情報が氾濫する時代には、「何を信じるか」は「誰を信じるか」よりも難しくなる。
QAnonは、そんな時代の“信じたいものを信じる人々”の心に刺さった現象だと言えるだろう。
果たして、次なる“Q”はまた現れるのか?
そして私たちは、そのとき何を「信じない自由」として持てるのか?
この物語は、まだ終わっていない。
そしてその続きを書くのは、あなたかもしれない。